序
雨の日には、過ぎ去った時間が少しだけ近くなる。
窓を打つ水音、冷めていく珈琲、濡れた舗道に滲む灯り。そうした小さなものの中に、忘れていたはずの記憶が、ふいに姿を現すことがある。人生の大きな出来事ではなく、むしろ何気ない午後や、短い返事や、帰り道の沈黙の方が、あとになって長く心に残っている。
この詩集に収めたものは、ひとつの場所の記録ではない。雨に濡れたカフェ、夜の新宿、湖畔の道、海沿いの夕暮れ、遠い故郷、兄弟の背中、母を思う星明かり。どれも別々の風景でありながら、どこかで同じ静けさを持っている。
人は、失ったものだけで出来ているわけではない。けれど、失ったものによって初めて輪郭を持つ感情もある。遠ざかった街、変わってしまった季節、もう戻らない日々。それらは消えていくのではなく、形を変えながら、心の奥に沈んでいく。
詩を書くことは、その沈んだものを無理に引き上げることではない。ただ、光の当たり方が変わる瞬間を待つことに近い。雨音の中で、あるいは夜の窓辺で、あるいは誰も座らなくなった椅子の前で、言葉になる前のものが、ほんの少しだけこちらを向く。
この本に強い答えはない。人生を励ますための言葉も、悲しみを簡単に癒やすための言葉も、ここにはあまり置かなかったつもりでいる。代わりに残したかったのは、光、匂い、音、距離、沈黙、そして時間が過ぎたあとにも消えずに残る、かすかな温度である。
もし読み終えたあと、ひとつの言葉よりも、ひとつの風景が心に残るなら、それでいい。
雨はいつか上がる。
けれど、雨の中で見えた灯りだけは、少し遠くなったあとも、記憶の中で静かにともり続けている。
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