海外に暮らすようになると、季節は少し違うものになる。
暦の上では同じ秋でも、空気の匂いが違う。夕方の光の落ち方も、風の冷たさも、街路樹の色づき方も、どこか別の速度で進んでいく。生活は新しい場所に馴染んでいく。買い物をする店が決まり、よく歩く道ができ、窓の外の景色にも少しずつ見慣れていく。
それでも、ある季節になると、遠くの街がふいに近づいてくることがある。
京都の紅葉は、その一つだった。
秋が深まる頃になると、京都のことを思い出す。寺の庭、石畳、川沿いの風、夕方の低い光。赤や橙に染まった葉が、ただ美しいだけではなく、時間そのものが色を持ったように見えたこと。そこにいた時には、もちろんその美しさを知っていた。けれど、離れてからのほうが、その景色は少し重みを持つようになった。
場所というものは、不思議だ。
そこにいる間は、日常の一部として通り過ぎてしまう。駅へ向かう道、よく行った店、何度も見た景色。目の前にある時には、それがどれほど自分の中に残るのか分からない。離れて初めて、ある場所が単なる滞在地ではなく、人生の一章だったのだと気づくことがある。
京都は、そういう場所になった。
観光地としての京都ではない。写真でよく見る京都でもない。もっと個人的で、もっと静かな場所として残っている。家を離れること、変わらなければならないと感じたこと、まだ言葉にできなかった不安や期待を抱えながら歩いた道。紅葉の赤は、そうした時間と結びついている。
最後に京都を訪れた時、紅葉はちょうど見頃だった。
庭の奥で、葉は静かに色づいていた。風が吹くと、枝先がわずかに揺れ、光が葉の間を通り抜けた。人はその景色を見て、美しいと言う。たしかに、美しかった。けれど、その美しさは、ただ目を楽しませるものではなかった。むしろ、しばらく言葉を失わせるような種類の美しさだった。
美しいものを見ると、人は時々、自分のことを少し忘れる。
それは逃避ではない。自分を消すことでもない。ただ、普段抱えている考えや不安が、一時的に少し後ろへ下がる。目の前の色、光、空気だけが前に出てくる。京都の紅葉には、そういう静かな力があった。
そして、紅葉を思い出す時、そこにいた頃の自分も一緒に戻ってくる。
今より若く、今より不確かで、けれど何かを変えなければならないと感じていた時期。家を離れることは、単に場所を変えることではなかった。慣れた生活から距離を置き、それまでの自分を少しずつ別の形へ移していくことでもあった。変化は、いつも前向きな言葉だけで始まるわけではない。不安や寂しさや、説明しにくい焦りの中から始まることもある。
紅葉は、その頃の記憶を静かに照らしている。
成長した、と簡単に言うことはできる。けれど実際には、成長とはもっと曖昧なものだと思う。何かを克服したというより、かつて分からなかった痛みや迷いを、少し別の距離から見られるようになること。昔の自分を否定するのではなく、その不器用さも含めて、確かにそこにいたのだと認められるようになること。
京都の紅葉が特別なのは、ただ美しいからではない。
そこに、時間が重なっているからだ。離れる前の自分。離れた後の生活。戻りたい気持ちと、戻れないことを知っている感覚。第二の故郷という言葉は、少し大きすぎるかもしれない。それでも、京都にはそう呼びたくなるだけの静かな重みがある。
故郷とは、必ずしも生まれた場所だけではない。
ある時期の自分を受け止めてくれた場所もまた、故郷になり得る。迷いながら歩いた道。何度も見上げた空。季節の変わり目に立ち止まった場所。そこに長く住んだかどうかよりも、その場所がどれだけ深く身体の記憶に残っているかのほうが、時には大切なのかもしれない。
いつかまた、京都へ戻る日が来るのだろう。
その時、紅葉は同じように美しいかもしれない。けれど、見る側はもう同じではない。時間が経ち、生活が変わり、家族と並んで歩く時の感覚も、かつてとは少し違っているはずだ。それでも、その違いを含めて、もう一度あの赤や金色の葉を見たいと思う。
帰るということは、過去に戻ることではない。
変わってしまった自分のまま、かつて大切だった場所にもう一度立つことなのだと思う。そこには少しの寂しさがあり、同じくらいの穏やかさもある。
今はまだ、京都の紅葉が一番美しい季節に、そこにいることはできない。
それでも、遠く離れた場所で秋の気配を感じるたびに、あの街の色が静かに戻ってくる。石畳の上に落ちた葉。夕方の庭の光。言葉にする前に、すでに身体が覚えている風景。
京都を離れてから、京都はますます遠くなった。
そしてその分だけ、心の中では、少し近くなった。
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